満月の光を及びしつるし柿

1月6日に投句した3句の中から一句が久々に新聞に掲載された。およそ2ヶ月に一度しか応募していないので、最近は期待もせず諦めかけている。以前のように意欲がなくなってきたようだ。むしろ1年前に戻ったのかもしれない。それでも幾ばくかの野心や心残りがあったのであろう、俳句というものを勉強しなおそうと、ここ一か月余り古典を読んでいた。一茶、蕪村、芭蕉と時代を順に遡って句集を読み返していたのだ。一茶も蕪村も芭蕉を敬愛していて、蕉風俳諧にこそ学ぶべきものがあるというようなことを言いもし、句にも表していた。ところが、改めて芭蕉を読むと、なんと奥深い世界であることか。さまざまな中国の漢詩・故事をはじめ、西行など平安期の日本の先達のことが下敷きにあって、それらを踏まえた句が多いのであった。したがって、句を読んでも表現された言葉だけでは真の理解にならないことがほとんどで、己の無学を知るばかりであった。なお、車庫の本棚に保管していた岩波の日本古典文學大系を部屋に持ってきたら、妻がかび臭いの埃っぽいのとうるさくて閉口してしまった。

さて、1月に投句したのは、次の3句である。初めの句と新聞の句に違いがあったのだ。選者の方が「吸ひし」よりも「及びし」の方がよかろうと添削してくれたのか、はたまた誤植なのか。確かに光は「吸ひ」よりも「及び」の方がよい気もした。ところが新聞の方は中七が字余りで、「及ぶ」を使うとすれば「光及びし」とすべきではなかろうか。「光を及ぶ」はいかにも不自然である。いずれにせよ勉強になることではあった。俳句は心を豊かにしてくれる効果も感じているので、もう一度、気分を引き締めて挑戦してみようかと思っている。

◎ 満月の光を吸ひしつるし柿   〇落ち葉掃く同じ顔無きことを知り

〇 爺婆(じいばば)の門(かど)にも来たる初日の出

 

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