6年前の大震災以降、何回か三陸を訪ねている。その度に工事の機械やダンプカーの往来は盛んで、その成果が土地の嵩上げや堤防の長さ・高さという形となっている。つまり、行く度に町の光景は少しずつ変化しているのだ。具体的には、海岸線が見えにくくなり、白砂青松で鳴らした三陸の海が、どんどんつまらないものにな
ってしまった。何万人もの死者・行方不明者を出してしまったのだから、対策として工事するのは至極当然のことなのだが…。それにしても、20m~40mという津波が押し寄せたのに、わずか10mほどの堤防工事が延々と続いているのはどうした訳なのか、私には理解できない。三陸から福島までの東北沿岸一帯にそんな工事が続いているのだ。何千億円、何兆円かかるのやら、見当もつかない。本当に意味があるのだろうか。地元の人と話していたら、「気休めですよね。」という言葉が飛び出したのだった。
2年ぶりに叔父夫婦が流されて亡くなった釜石市両石町を訪れた。前回は叔父の家の土台と前のパン屋さんの家の土台が残っているだけだった。町は全滅である。海から最も離れた高台にあった1軒だけが被害を免れたという。叔父の家はそのすぐ前の2軒目であった。海からその高台までの町は、なかった。ところが、今回はその谷間の町がすべて埋められて、町があったという痕跡すらなくなっていた。叔父の家の土台もどこなのか、ほとんど分からない状態であった。すべてが埋め立てられてしまったのである。
7月31日、石巻市立大川小学校を訪れた。北上川の堤防下に草だらけの原っぱが広がり、小学校らしき建物の跡だけがあった。ひっきりなしに工事のダンプカーが往来する。校舎裏の鉄の扉は押し曲げられ、窓も何もない。体育館とプールがあったという所は校舎とつながっていたが、そのつなぎの建物は大きく崩れ、体育館もプールもまるで残っていない。私は、校舎の屋根に取り付けられた拡声器が妙に心に残った。屋根という高いところにもかかわらず、つぶされて、なんと真ん中には草が生えて空に向かって伸びていた。子どもたちにさまざまな連絡や音楽を流して活躍していた拡声器も、今では子どもたちに呼びかけることもなくなってしまった。この暑い夏ならば、はしゃぐ子どもたちの声が聞こえたであろうプールも草茫々であった。
夏草に子らの声聞くプール跡
後で知ったことだが、周辺の広大な原っぱには町があったのだという。小学校の校庭には地域住民も避難してきていたそうだ。北上川の河口から4kmも離れていたこと、かつて、津波が来たことがないこと、それらが判断を狂わせたらしい。児童74人、教職員10人が亡くなってしまった。訴訟問題にも発展し、未だにさまざまな課題を残しているそうだ。