村はずれ200mほどの田んぼ中にある念仏塚

平成30年1月24日、横手は今冬最高の降雪であった。膝まである長靴が埋もれるほどの新雪で、45cmはあったようだ。そんな荒天の中、我が集落では毎年恒例の「念仏」が行われた。各家々からなぜか女性が一人ずつ参加して行う。今年は初めて写真撮影をさせてもらった。初めに念仏塚に集合し、お参りをした後で全員で(今年は20人参加)長い数珠を回す。中央で鐘をたたき続ける役の人がいて、何遍回ったかを数える役の人もいる。回す人たちはこぶ目が来ると一礼する。こうした数珠回しを集落のはずれ東西南北の入り口と庚申塚(初めにあるアイキャッチ画像)で行うのである。毎年、山内村の南郷地区で行われる百万遍念仏がTVで紹介されるが、昔はあちこちの村々で行われていたものかもしれない。寒中の素朴な雪国行事である。

念仏塚については、当地区の先達が残した「黒川の昔話」という冊子の中に由来が書かれていたので紹介したい。なお、これは、私が現職の頃に冊子の中からいくつかをPCに打ち込み、電子版として保存しておいたものである。

「念仏塚は黒川館と余目部落の中間に位置し、旧道余目、寺村間の道路の東側で古老たちの話では白旗大明神社が寺村現在地に移転し、その跡に念仏塚を祭ったとの説である。念仏塚の由来については二つの説がある。一つは、仏門に入った六部が修行中、黒澤甚兵衛道家の刀の試し切り六部塚と、今ひとつは田の水廻りの親孝行の百姓の息子の試し切り説とである。(注:①六部と呼ばれる巡礼の僧が試し切りにあった ②親孝行な百姓の息子が田んぼの水を見に来ていて試し切りにあった という二つの説。それらを供養するために念仏塚を建立) 試し切りの刀は、刀鍛冶月山派の雁字丸と言う。今この塚には二本の老杉があり、二株のつつじがある。塚舎の中には三体の地蔵様があり、中央はやや高い。左右の地蔵様は古いものである。この地蔵様に願いの御札に穴石、お返しする穴石が沢山ある。また、木彫の花筒があり古いものである。鐘と香あり、灯明台二基、毎年1月24日と4月24日の2回数珠廻しをするという。この時の住職は洞雲寺さんとのこと、この数珠は余目の小田嶋征吉宅で管理しておる。また数珠は小田嶋さんの先祖が寄進した物と聞く。昔、余目に萬年寺という寺があった。今から300年ぐらい前のこと、この寺の山門に六地蔵の二体であったと聞く。別の二体は現在余目部落共同墓地の根田慶一郎氏の墓地内にある。この二体の地蔵様にも色々の伝説がある。この地蔵を廻り地蔵、また水廻り地蔵と伝えられておる。雨が降ってサドの水が増すと地蔵様がクルリと廻ると伝え、天気が良く長く続くと何日もかかって一転するという。昔は下根田や佐加里の人々が大戸川橋の出来ない時代は必ずこの地蔵前を通り拝礼したと聞く。廻り地蔵に参り、願い事すると願いがかなうと言って参拝人があったとの言い伝えがある。現在は根田さんが管理しており、風雪で倒れるので倒れないようにしておるから廻らないのです。また、もう二体の地蔵様がなくなっており、廻り地蔵様がなくなった地蔵様を尋ねており、それで廻るのだと古老の話であった。念仏塚の地蔵様、廻り地蔵様、なくなった地蔵様は兄弟地蔵様だという。」

なお、上の文中にある「二本の老杉」は数年前に枯死したため、現在は二本の桜が植えられベンチも置かれるようになり、春の花見の時期にはおばあさんたちの集う光景が見られる。

(※ 写真をクリックすると拡大されます。)

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